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信長の野望 なんでそんなに強いの? 「上杉家に鬼神あり」と言われた本庄繁長

2026年10月07日

カテゴリー:信長の野望 なんでそんなに強いの?

信長の野望 なんでそんなに強いの? 「上杉家に鬼神あり」と言われた本庄繁長

『信長の野望』で高い能力を持つ本庄繁長は、どのような生涯を歩んだ武将だったのでしょうか。上杉謙信への反乱、上杉景勝への協力、伊達政宗の攻撃に対する福島城の守り、そして上杉家の存続に向けた交渉まで、その足跡をたどります。武勇だけでなく、自分の家や領地を背負う領主としての立場を知ることで、ゲームの能力値だけでは見えない繁長の強さと人物像に迫ります。

『信長の野望』をプレイしていると、名前を知らないのに、なぜか能力値がものすごく高い武将に出会うことがあります。

「この人、誰だか分からないけど強すぎない?」
そんな疑問にお答えする企画「信長の野望 なんでそんなに強いの?」

今回紹介するのは「武人八幡」の称号を贈られた猛将・本庄繁長です。

「上杉家に鬼神あり」と語られるほどの武勇を持ち、気性剛強で勇猛な人物として知られる繁長。上杉謙信や上杉景勝に仕えた武将ですが、その生涯は、主君に忠実に従い続ける家臣というイメージには収まりません。

謙信に反旗を翻して長期間抵抗し、晩年には伊達政宗の攻撃から福島城を守る。さらに、関ヶ原の戦いの後には、上杉家を存続させるための交渉にも携わりました。
戦って強いだけでなく、家を守るために戦いを終わらせることもできた人物。本庄繁長の生涯から、その強さの理由を見ていきましょう。

越後北部に根を張った本庄氏

本庄繁長を知るためには、まず本庄氏がどのような立場の一族だったのかを押さえておく必要があります。
本庄氏の本拠地は、現在の新潟県村上市。新潟県の北部に位置し、山形県にも近い地域です。居城の本庄城は、後に村上城と呼ばれる城で、臥牛山という山に築かれていました。

本庄氏は、越後北部の有力な国人領主たちである「揚北衆」の一員でした。揚北衆とは、阿賀野川より北の地域に勢力を持った武士たちを指します。
「国人領主」と聞くと難しく感じるかもしれませんが、簡単にいえば、地域に根を張り、自分の土地や家臣を持っていた領主です。大名から役職を与えられて働くだけの存在ではなく、もともと自分の支配基盤を持っていました。
そのため、大きな勢力に従う場合でも、自分の家や領地をどう守るかという判断が欠かせません。主君の命令だからといって、何でも無条件に受け入れるわけではなかったのです。

特に揚北衆は独立性が強く、越後を支配する上杉氏や長尾氏と対立することもありました。本庄繁長も、こうした地域の領主としての性格を強く持っていた人物です。

ゲームでは「上杉家の武将」として表示されますが、その背景には、本庄氏という一つの家を背負う立場がありました。この点を知っておくと、後に繁長が謙信に反抗したことも理解しやすくなります。

幼い当主が果たした本庄家の奪還

繁長の人生は、幼いころから一族の争いに巻き込まれるという、厳しいものでした。
父の本庄房長が活動していたころ、越後では伊達氏から上杉氏へ養子を迎える話が持ち上がっていました。伊達家の当主・伊達稙宗は、子供たちの婚姻や養子縁組を通じて、周辺の勢力との関係を広げていた人物です。

ただし、養子を迎えることは、単なる親戚づきあいではありません。家の当主となる人物が外部から入れば、その実家の影響力も強まります。受け入れる側にとっては、自分たちの立場や、家の将来にも関わる問題でした。
房長は、この養子縁組に反対したと伝えられています。一方で推進する勢力もあり、対立は争いへと発展しました。
その中で、房長の弟にあたる小河長資が、房長を裏切って本庄城を奪ったとされます。房長は城を失い、やがて亡くなりました。繁長は、父が築いていた立場を失った状態から人生を始めることになったのです。

しかし、繁長はそのまま終わりませんでした。
伝えられるところでは、父の十三回忌にあたるころ、まだ十代前半だった繁長は、叔父の小河長資を捕らえ、自害に追い込みました。そして、本庄氏の本拠地を取り戻したのです。
幼少期の年齢や細部には記述の違いがありますが、幼い繁長が叔父から本領を奪い返したことは、その生涯を語るうえで欠かせない出来事です。

現代の感覚では、驚くほど苛烈な話でしょう。しかし、当時の領主にとって家を継ぐとは、財産を受け取るだけではありません。家臣や一族をまとめ、領地を守り、場合によっては親族とも争う責任を負うことでした。
繁長の強さの出発点には、このような厳しい環境があったのです。

上杉謙信に仕えながらも独立心を失わず

本庄家を再興した繁長は、やがて上杉謙信に従い、各地の戦いで活動するようになります。
上杉謙信といえば戦国時代を代表する名将です。武田信玄と争った川中島の戦いや、関東への出兵などで知られ『信長の野望』でも非常に高い能力を持つ武将として登場します。繁長は、その謙信のもとで武功を重ねました。

ただし、ここで忘れてはいけないのが、繁長はもともと自分の領地を持つ国人領主だったということです。上杉家の軍事行動に参加しながらも、本庄家の利益や立場を考える必要がありました。謙信から見れば、越後をまとめ、必要なときに兵を動かせる体制をつくりたい。一方、国人領主たちからすれば、従うことで自分の家にどのような利益があるのか、どこまで負担を求められるのかが重要になります。

大名と家臣の関係は、いつも一枚岩だったわけではありません。特に繁長のように地域で力を持つ人物は、頼もしい味方であると同時に、対立すれば厄介な相手にもなりました。繁長の生涯には、その両面がはっきりと表れています。

謙信に仕えて活躍したからこそ、その軍勢や戦い方を知っている。そして、自分の領地や城については、誰よりも詳しい。そうした人物が敵に回ったとき、どれほど手ごわい存在になるのか。次の出来事はそれをよく示しています。

恩賞への不満から起きた「本庄繁長の乱」

繁長の武勇を語るうえで、特に印象的なのが、上杉謙信に反旗を翻した「本庄繁長の乱」です。
その背景として語られるのが、上杉家臣の長尾藤景との事件でした。
藤景は、第四次川中島の戦いにおける謙信の戦術を批判し、謙信と対立したとされます。そして繁長は、謙信の命令によって、藤景と弟の景治を宴席で謀殺したと伝えられています。
このとき繁長自身も負傷したとされ、危険を伴う役目だったことがうかがえます。しかし、その働きに対して十分な恩賞がなかったことが、繁長の不満につながったといわれています。

もっとも、反乱の理由を「褒美がもらえなかったから」とだけ考えると、話を単純にしすぎてしまいます。繁長には、国人領主としての自立性や、上杉家の支配が強まることへの思いもあったでしょう。恩賞への不満は、反乱の背景として伝えられる要素の一つです。ここに働きかけたのが、謙信の宿敵・武田信玄でした。

越後内部で反乱が起これば、謙信は外の敵だけに集中できなくなります。繁長の動きは、信玄にとっても都合のよいものでした。
こうして1568年、繁長は信玄と結び、謙信に反旗を翻します。上杉家にとって頼もしい猛将が、今度は越後内部の強敵となったのです。

軍神を相手に長期間抵抗

謙信に反抗した繁長は、本庄城に籠もって抵抗しました。

相手は、戦国屈指の名将・上杉謙信です。しかも繁長は、越後全体を支配する大名ではなく、その一地域を本拠とする領主でした。上杉方の攻撃を受ける立場は、決して有利ではありません。それでも、繁長は簡単には屈しませんでした。

本庄城の地形を生かして守りを固め、籠城を続けながら抵抗します。戦いは翌1569年まで約1年続き、謙信は繁長を短期間で制圧することができませんでした。籠城戦は、城門を閉じて待っていればよいものではありません。兵や食糧を維持し、城内の動揺を抑え、敵の攻撃に対応する必要があります。長引けば長引くほど、守る側にも負担がかかります。その中で抵抗を続けたことは、繁長の指揮能力と、本庄氏の支配基盤の強さを示しています。

最終的には、蘆名氏などの仲介によって和睦が成立しました。繁長は息子を人質に差し出すなどして、上杉家への帰参を許されます。結果として繁長の独立は実現しませんでした。しかし「謙信を相手に長期間持ちこたえた」という点は、その強さを考えるうえで見逃せません。この反乱は本庄繁長の武名が一躍有名になった戦いとなりました。

『信長の野望』における能力設定の理由は、制作側の説明がなければ断定できません。それでも、繁長の高い戦闘能力に納得する材料として、この反乱での抵抗は十分でしょう。主君として頼りになる謙信を、自分が相手にすることになったらどうなるのか。その難しさを想像すると、繁長の手ごわさも実感できるのではないでしょうか。

御館の乱では上杉景勝を支持

本庄繁長の乱を経て、上杉家に帰参した繁長。しかし、その後も越後では大きな争いが起こります。
1578年、上杉謙信が急死しました。後継者が明確に定まっていなかったことから、謙信の養子である上杉景勝と上杉景虎が家督を争います。これが、御館の乱です。

上杉家の家臣や越後の国人領主たちは、景勝方と景虎方に分かれました。謙信のもとでまとまっていた勢力が、今度は上杉家の後継者をめぐって争うことになったのです。このとき、繁長は上杉景勝を支持しました。

かつて謙信に反旗を翻した繁長ですが、謙信の死後には景勝と結び、その勝利を支える側に立ちます。繁長の生涯を見ると
「上杉家に従った」「上杉家に反抗した」という一つの見方だけでは、その立場を捉えきれないことが分かります。
国人領主にとって、誰を支持するかは、自分の家や領地の将来にも関わる重要な判断でした。繁長も、本庄家を背負う領主として、上杉家の後継者争いに向き合ったのです。

御館の乱は景勝方の勝利に終わり、景勝が上杉家の当主となりました。繁長はその後も景勝のもとで活動し、越後北部に強い勢力を持つ武将として、庄内地方にも関わっていきます。
そこで重要になるのが、庄内を治める大宝寺氏との関係です。繁長の活躍の舞台は、越後の本庄城から、現在の山形県鶴岡市を中心とする庄内へと広がっていきました。

大宝寺氏との養子縁組

本庄繁長は、越後の北に隣接する庄内地方にも深く関わっていきます。そこで重要となったのが、庄内を治める大宝寺氏との関係でした。
大宝寺氏は、もともとの姓を武藤といい、現在の山形県鶴岡市を中心に勢力を持っていた一族です。当主の大宝寺義氏は庄内で勢力を伸ばしていましたが、山形を本拠地とする最上義光も、庄内への進出を狙っていました。
この争いの中で、義氏の家臣だった東禅寺義長が最上義光と通じ、主君を裏切ります。1583年、義氏は義長らの攻撃を受け、自害に追い込まれました。
義氏の跡を継いだのが、弟の大宝寺義興です。しかし、兄が亡くなっても、東禅寺氏と最上氏の脅威がなくなったわけではありません。義興は対抗するため、越後の本庄繁長との結びつきを強めました。その関係を支えたのが、繁長の次男・千勝丸を義興の養子に迎える縁組です。この千勝丸が、後の大宝寺義勝でした。

戦国時代の養子縁組は、跡継ぎを確保するとともに、有力な勢力と協力関係を築く手段でもありました。義興にとっては、本庄氏と、その背後にいる上杉氏の支援を得ることにつながります。一方、繁長にとっても、息子が大宝寺氏を継ぐことで、庄内との関係をさらに強める意味がありました。こうして庄内では、大宝寺氏を支える本庄・上杉方と、東禅寺氏を支える最上方という対立が深まっていったのです。

庄内を取り戻した「十五里ヶ原の戦い」

庄内をめぐる戦国の争いを表す、勝手に町の歴史を紹介!山形県鶴岡市に関連する画像

1587年、最上義光は庄内へ侵攻し、東禅寺氏とともに、大宝寺義興の居城・尾浦城を攻めました。
尾浦城は落城し、義興は庄内の支配を失います。義興の最期については、自害したという説や、捕らえられて山形の谷地へ送られ、その後に亡くなったという記述があります。
一方、養子の大宝寺義勝は難を逃れ、実父・本庄繁長のもとへ逃げ延びました。庄内は最上方の支配下に入りましたが、大宝寺氏の後継者は生き残ったのです。

翌1588年、繁長は上杉景勝の支援を受け、義勝とともに庄内へ進攻します。義勝にとっては支配を取り戻す戦いであり、繁長にとっては息子を助け、大宝寺氏を再興するための出兵でした。これを迎え撃ったのが、東禅寺氏を中心とする最上方の軍勢です。つまり、大宝寺義勝・本庄繁長父子と、東禅寺氏ら最上方の軍勢が、庄内の支配をめぐって衝突することになりました。

この戦いで、繁長父子は勝利を収めました。軍記には、夜のうちに一部の兵をひそかに川の向こうへ渡し、敵の背後へ回り込ませたという話も伝わっています。正面からの攻撃に加え、背後からも襲われた最上方は、総崩れになったとされます。
また、東禅寺義長の弟・東禅寺勝正が繁長に切りかかり、兜に傷をつけたという逸話も残っています。戦闘の細部には史料による違いがありますが、繁長自身にも危険が迫る激戦として語り継がれてきました。

勝利した繁長は庄内の制圧を進め、義勝を尾浦城に置いて大宝寺氏を再興させました。自らは東禅寺城を拠点とし、庄内の支配に関わります。東禅寺氏の離反と最上氏の侵攻によって失われた支配を、繁長父子が取り戻したのです。

謙信を相手に長期間抵抗した繁長は、城を守ることだけに優れた武将ではありませんでした。庄内では軍を率いて進攻し、敵を破って地域の勢力図を変えています。十五里ヶ原の戦いも、本庄繁長の強さを語るうえで欠かせない実績でしょう。
大宝寺氏や十五里ヶ原の戦いについては、先日紹介した山形県鶴岡市の記事でも取り上げています。地域の歴史と合わせて、こちらのブログもぜひご覧ください。

勝手に町の歴史を紹介!「山形県鶴岡市」

伊達政宗の前に立ちはだかった老将

時代は、徳川家康と石田三成の対立が深まる1600年へと進みます。
関ヶ原の戦いというと、岐阜県の関ヶ原で起きた東軍と西軍の決戦が有名です。しかし、その前後には、各地で関連する戦いが起きていました。上杉家も、東北で伊達氏や最上氏と対峙しています。このとき繁長が守っていたのが、福島城でした。

その前に現れたのが、独眼竜として知られる伊達政宗です。政宗は家康から、上杉領の一部を与えるという約束を取りつけていました。実現すれば領地が百万石を超えることから「百万石の御墨付」と呼ばれます。
これは、「戦争中なら何をしてもよい」という約束ではありません。家康が上杉氏を牽制するため、政宗に具体的な領地の加増を約束したものでした。政宗にとっては、かつて伊達氏が支配していた地域を取り戻す機会でもあります。
その進撃を受け止める立場にいたのが、繁長だったのです。

一般に「松川の戦い」として知られる戦いでは、繁長ら上杉方が伊達軍の攻撃に対応し、福島城を守りました。
後世の軍記には、周辺の上杉方の部隊が伊達軍の背後を襲い、繁長らも城から出撃して挟み撃ちにしたという話が伝わっています。少数の軍勢で政宗の大軍を破ったという逸話は、繁長の武名を印象づけるものです。
ただし、この戦いの名称や詳しい経過、勝敗の描き方には史料上の問題があります。福島県歴史資料館は、後世の軍記が描く上杉軍の圧勝について、同時代の史料から慎重に検討する必要があると指摘しています。

それでも、繁長が福島城を守る指揮官として伊達氏の攻勢に対処したことは、その軍歴の重要な一場面です。謙信に抵抗したころから長い年月が経っても、上杉家の要所を任され、強敵の前に立っていたのです。
若いころの勢いだけで戦う武将ではなく、経験を重ねた老将として守りを担う。その姿にも、繁長の強さが表れています。

上杉家を残すために

繁長の生涯で、もう一つ注目したいのが、関ヶ原の戦いの後の行動です。
関ヶ原の戦いは、徳川家康が率いる東軍が勝利しました。上杉家は家康と敵対していたため、厳しい処分を受ける立場になります。
福島城で攻撃を防いだとしても、天下の情勢が変わったことまで覆せるわけではありません。ここから上杉家がどう生き残るか。その判断が必要になりました。

伝えられる話では、直江兼続が徹底抗戦を主張したのに対し、繁長は早期の講和を唱えたとされます。そして繁長は、徳川方との交渉や終戦工作に携わりました。かつて謙信に反旗を翻した猛将が、今度は上杉家を残すために動いたのです。
ここに、繁長のもう一つの強さがあります。勇猛な武将であっても、戦い続けることが常に最善とは限りません。目の前の戦場で抵抗できることと、家全体が存続できることは、別の問題です。
戦えば家を失う可能性があるのなら、交渉によって道を探る。その判断も、家を背負う武将には求められました。

上杉家は最終的に、会津120万石から米沢30万石へと大幅に減封されました。領地は四分の一になったものの、大名家としての存続は認められます。もちろん、この結果を繁長一人の功績として説明することはできません。しかし、上杉家が生き残るための交渉に携わったことは、武勇とは別の働きとして評価できるでしょう。
繁長は、敵を打ち破る力だけでなく、戦いの後に家を残すための判断力も持っていた人物でした。

「武人八幡」と称えられたその強さとは

本庄繁長は、1614年に生涯を終えました。長年の武功を称え、上杉景勝から「武人八幡」の称号を贈られたと伝えられています。
八幡は武家から厚く信仰された神です。その名を伴う称号からは、繁長の武勇がどれほど高く評価されていたのかが伝わってきます。

幼いころに本庄家の本領を取り戻し、謙信に従って戦い、やがてその謙信に反抗する。帰参した後も活動を続け、晩年には伊達政宗の攻勢に対応し、上杉家の存続に向けた交渉にも関わる。
繁長の生涯は、順調に出世を重ねた家臣の物語ではありません。自分の家の立場を守りながら、主君と協力し、ときには対立し、変わり続ける情勢の中を生き抜いた人生でした。だからこそ、ゲームで「上杉家の強い武将」として見るだけでは分からない面白さがあります。

戦国大名の軍勢を支えたのは、こうした自分の城や領地を持つ領主たちでした。彼らをまとめることも、大名にとって大きな仕事だったのです。『信長の野望』で本庄繁長を使うときは、謙信を相手に持ちこたえた城主であり、政宗の前に立ちはだかった老将でもあったことを思い出してみてください。

名前を知らなかった武将でも、その人生を知れば、高い能力の向こうに具体的な姿が見えてきます。
本庄繁長は、強敵を相手に戦い抜き、最後には家を残すために動いた武将。その生涯こそが、「なんでそんなに強いの?」という疑問への答えになるのではないでしょうか。

 

今回ご紹介した本庄繁長については、YouTubeでも詳しくお話ししています。

「上杉家の鬼神」と称された本庄繁長の勇猛な戦いぶりや、上杉謙信に反旗を翻した本庄繁長の乱、伊達政宗の攻撃から福島城を守った活躍、そして上杉家の存続に向けて講和に尽力した生涯について、分かりやすく紹介しています。
記事とあわせて、ぜひ動画もご覧ください。

▶ 本庄繁長の解説動画はこちら

 

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歴史会講師 井坂陽一

記事の執筆者:

歴史会講師 井坂陽一
歴史会主催 / 講師 
SISeI合同会社 代表

ベーシストとしてロサンゼルスに留学。その後、音楽専門学校講師やREC、LIVEなど音楽活動を続けるが、一転してSISel合同会社を設立。
企業のPVやMVを中心に動画を制作し、中長期的プロモーションの戦略を提案するクリエイティブコンサルタントも行う。
2021年に一般社団法人寺子屋経営塾を新たに立ち上げ「徳ある経営の実践」をテーマに代表理事として運営。歴史やDX、SNSなど、全国でセミナー講師としても活動中。

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