日本全国には、有名な観光地だけではなく、その土地を少し掘り下げてみるだけで面白い歴史が次々と出てくる町があります。
そこで歴史会では、私が実際に訪れた町を中心に、その町の名物や観光スポット、そして意外と知られていない歴史を「勝手に」紹介していきます。
今回ご紹介するのは、山形県鶴岡市です。
出羽三山の信仰、庄内平野の食文化、そして幕末に強さを見せた庄内藩。この三つをたどると、鶴岡という町の輪郭が見えてきます。
山と海、田園が広がる鶴岡へ

鶴岡市は、山形県の日本海側、庄内地方の南部に位置します。人口は2026年8月末の住民基本台帳で113,254人。面積は約1,311平方キロメートルあり、東北地方で最も広い市です。2005年に旧鶴岡市と藤島町、羽黒町、櫛引町、朝日村、温海町が合併し、現在の市域になりました。
城下町の市街地から、日本海に面する海岸、庄内平野の田園、山あいの集落まで。同じ市内でも景色が大きく変わるところに、鶴岡の面白さがあります。観光地が広範囲に点在しているため、訪れる場所をいくつか選び、移動時間も含めて旅を組み立てると楽しみやすい町です。
東京から鉄道で向かうなら、上越新幹線で新潟駅へ行き、羽越本線の特急「いなほ」に乗り換えて鶴岡駅へ。所要時間は乗り継ぎによりますが、約4時間が目安です。山形新幹線を利用する場合は、山形駅から高速バスを利用する方法もあります。
車では、仙台方面から山形自動車道を経由して鶴岡ICへ。新潟方面からは日本海東北自動車道と国道7号などを利用します。日本海沿いの高速道路には未開通区間があるため、全区間を高速道路で移動できるわけではありません。飛行機なら庄内空港が便利で、到着後はバスやレンタカーで市内へ向かえます。
「食文化創造都市」は、日々の暮らしから生まれた

鶴岡を語るうえで欠かせないのが食文化です。庄内米をはじめ、だだちゃ豆、庄内柿、温海かぶ、民田なすなど、土地に根付いた食材がそろいます。米どころ庄内では、つや姫や雪若丸といった米も親しまれています。
なかでも注目したいのは、地域の人々が種を採り、育て続けてきた在来作物です。鶴岡とその周辺には60種類以上の在来作物が確認され、種だけでなく栽培方法や食べ方も受け継がれてきました。温海かぶの漬物や民田なすのからし漬けなどは、食材と暮らしの知恵が結び付いた味といえるでしょう。
山の幸、里の幸、海の幸に恵まれた環境に、出羽三山の精進料理や行事食が重なります。こうした食文化が評価され、鶴岡市は2014年、日本で初めてユネスコ創造都市ネットワークの食文化分野に加盟しました。
また、ひな祭りを彩る「お雛菓子」も鶴岡らしい文化です。鯛や海老、庄内柿、温海かぶなどをかたどった練り切りは、見ているだけでも楽しいもの。土地の名産を小さな菓子に表現するところに、食への愛着と職人の技が感じられます。鶴岡は学校給食発祥の地としても知られ、食と教育が結び付く歴史にも目を向けたい町です。
観光の楽しみも豊富です。
春は「日本さくら名所100選」に選ばれた鶴岡公園、夏は海水浴や赤川花火大会。秋には田園の実り、冬には雪景色と、季節によって町の表情が変わります。クラゲ展示で知られる加茂水族館、湯野浜温泉やあつみ温泉なども、旅の目的になる場所です。
鶴岡天神祭は、菅原道真との別れを惜しむ人々が姿を隠したという伝承にちなむ「化けものまつり」。荘内大祭では、酒井家ゆかりの大名行列が城下町を彩ります。食、祭り、自然がそれぞれ独立せず、暮らしの中でつながっている。それが鶴岡の魅力です。
人々が山に求めた「生まれかわり」

鶴岡の歴史をたどる旅は、まず出羽三山から始めたいと思います。羽黒山、月山、湯殿山の三山は、古くから山岳信仰と修験道の重要な拠点となってきました。修験道とは、山での厳しい修行を通じて心身を鍛える、日本の自然信仰に仏教などが重なった宗教文化です。
開山の伝承に登場するのが、崇峻天皇の皇子・蜂子皇子です。出羽三山神社の由緒では、593年にこの地へ来たとされ、由良の海岸にたどり着いたという物語も伝わります。その後、霊烏に導かれて羽黒山へ登り、山を開いたとされています。これは開山にまつわる伝承として、史実と区別しながら味わいたい話です。
出羽三山を巡る参拝は「生まれかわりの旅」とも呼ばれます。山を歩き、自然の大きさに触れ、自分の生き方を見つめ直す。古くから続く信仰には、現在を生きる私たちにも通じるものがあります。
羽黒山の参道には2,446段の石段があり、杉並木の中に国宝・羽黒山五重塔が立っています。華やかな城や宮殿とは異なる、森と一体になった姿が印象的です。建築を見るだけでなく、そこへ至る道を歩くことで、信仰がこの土地に根付いてきた時間を感じられるでしょう。
出羽三山の信仰は、日本遺産にも認定されています。参拝だけでなく、宿坊や精進料理、祭りなども含めて、一つの文化を形づくっているのです。
実は鶴岡には、この出羽三山に加え、北前船、そして絹産業という三つの日本遺産の物語があります。山で祈り、海を通じて交流し、新しい産業を育てる。三つを知ることで、鶴岡の歴史が山から海、そして近代へとつながっていきます。
庄内をめぐる戦国の争い

平安時代末期、この地域には「大泉荘」という荘園が置かれました。その中心となったのが、大梵寺、のちに大宝寺と呼ばれる土地です。現在の鶴岡につながる町は、はじめから「鶴岡」という名前だったわけではありません。
鎌倉時代の初めには、武藤氏が大泉荘の地頭として支配するようになります。この一族は大宝寺氏とも呼ばれ、中世の庄内で勢力を持ちました。羽黒山も大きな力を持つ存在であり、大宝寺氏はその別当の立場を兼ねるなど、政治と信仰が密接に結び付いていました。
戦国時代、庄内は大宝寺氏、山形の最上氏、越後の上杉氏が関わる争いの舞台となります。大宝寺義氏は織田信長とも関係を結び、「屋形」の称号を得たと伝わります。しかし、1583年に家臣の反乱によって命を落とし、弟の義興が跡を継ぎました。
義興は上杉氏の重臣・本庄繁長の次男を養子に迎えます。これが大宝寺義勝です。最上氏側の攻勢で義興が倒れた後、1588年、本庄繁長と義勝は庄内へ進攻。十五里ヶ原の戦いで最上方を破り、大宝寺氏の勢力を回復しました。
ところが、その支配は長く続きませんでした。豊臣政権の検地などを背景に藤島一揆が起こり、義勝は一揆への関与を疑われて1591年に改易。庄内は上杉氏の支配下に入りました。地方の争いも、天下統一を進める政治の大きな流れと切り離せなくなっていたのです。
関ヶ原の戦いの後、1601年に庄内を領有したのは最上義光でした。1603年には大宝寺城が「鶴ヶ岡城」と改称されます。酒田の海岸に大きな亀が上がったことを吉兆として東禅寺城を「亀ヶ崎城」に改め、それに対する鶴の名として鶴ヶ岡城とした、という由来が伝わっています。
町の名前にも、領主の交代や縁起を重んじる当時の感覚が残されています。現在の鶴岡公園を歩くとき、この場所が庄内の争いと支配の移り変わりを見てきた城跡だと知れば、風景の見え方も変わるはずです。
酒井家の城下町と海がつないだ商い

1622年、「最上騒動」というお家騒動が起こり、最上氏が改易されると、酒井忠勝が庄内に入りました。忠勝は徳川四天王の一人である酒井忠次の孫です。酒井家は鶴ヶ岡城を居城とし、以後、江戸時代を通じて庄内を治めます。現在の鶴岡の市街地につながる城下町は、この酒井家の時代に整えられていきました。
庄内藩の特徴を知る場所が、藩校・致道館です。1805年に酒井忠徳によって創設され、藩を担う人材の育成に力が注がれました。東北地方で唯一現存する藩校建築であり、城下町を訪れるなら立ち寄りたい史跡です。
致道館の教育では、個性を伸ばすことや、自ら学ぶことが重視されました。これは歴史に学ぶ経営という視点でも興味深いところです。人に同じ答えを覚えさせるだけでなく、それぞれが考え、学び続けられる環境を整える。組織を長く支える人材づくりを考えるきっかけになります。
一方、海側には商いの歴史があります。加茂港は、北前船が寄港する港町として栄えました。北前船は日本海などを行き来し、寄港地で商品を売買した船です。物資とともに情報や文化も運び、離れた地域をつないでいました。
加茂には、当時の町割りや船主の家屋、商人の寄進による寺院の文化財などが残ります。現在は水族館を目的に訪れる人も多い場所ですが、少し町へ目を向ければ、海運で繁栄した歴史が見えてきます。山には信仰、平野には農業、港には商い。異なる営みが庄内を支えていたのです。
なぜ庄内藩は強かったのか

幕末の庄内藩は、江戸市中の取締りを担い、幕府の命令で薩摩藩邸の焼き討ちに関わりました。こうした経緯もあり、1868年の戊辰戦争では、会津藩とともに新政府から敵とされます。
奥羽越列藩同盟の有力勢力となった庄内藩は、新政府軍との戦いで強さを発揮しました。その背景には、藩の団結と、酒田の豪商・本間家の財力を背景にした近代兵器の導入がありました。勇敢な武士がいたというだけでなく、資金、装備、組織がそろっていたことに注目したいところです。
しかし、戦場で勝つことと、戦争全体を勝ち抜くことは同じではありません。米沢藩や仙台藩などが相次いで降伏し、同盟が崩れていく中、庄内藩も9月に降伏しました。局地的な強さがあっても、周囲の情勢から孤立すれば戦い続けることは難しい。庄内藩の歴史は、その現実も伝えています。
戦後、新政府側の対応は、庄内の人々が覚悟していたより寛大なものでした。その背景に西郷隆盛の意向があったと知った旧藩士たちは、西郷の人柄に心を動かされます。旧藩主・酒井忠篤らは鹿児島へ赴き、西郷のもとで兵学を学びました。かつて敵だった相手に学ぶ関係が生まれたのです。
この縁は現在にも続き、鶴岡市と鹿児島市は兄弟都市となっています。また、温海地域の関川で庄内藩と薩摩側の部隊が戦った縁から、鹿児島県曽於市との友好交流も生まれました。戦いの記憶を、次の世代の交流へと変えてきた歩みです。
新しい時代の産業へ
さらに明治になると、旧庄内藩士たちは、現在の鶴岡市羽黒町にある松ヶ岡の開墾に取り組みました。桑を育て、蚕を飼い、生糸を生産することで、新しい時代の産業を育てようとしたのです。
この場所は「松ヶ岡開墾場」と呼ばれ、現在も当時の蚕室などが残っています。刀を鍬に持ち替えた旧藩士たちの歩みは、日本遺産「サムライゆかりのシルク」につながっています。
なお、庄内ゆかりの幕末人物には清河八郎もいます。ただし、生まれた清川村は現在の庄内町です。鶴岡から庄内地方全体へ旅を広げるなら、隣の庄内町清川にある「清河八郎記念館」を訪れ、幕末の志士・清河八郎の生涯に触れるのもよいでしょう。
受け継がれる鶴岡

明治時代に入り、鶴岡は城下町から近代の町へと姿を変えていきました。松ヶ岡の開墾に始まった養蚕や製糸は、地域を支える産業へと発展します。庄内平野では、農作業の方法や米の品種改良にも工夫が重ねられました。武士の時代が終わった後も、人々は新しい仕事と技術を取り入れ、暮らしを築いていったのです。
1924年には市制が施行され、鶴岡市が誕生しました。しかし、昭和に入ると、不況や凶作、そして戦争が地域の暮らしにも影を落とします。先の大戦では、鶴岡も戦争と無縁ではありませんでした。東京の江戸川区から学童疎開の子どもたちを受け入れ、寺院などが生活の場となりました。親元を離れて暮らす子どもたちを、地域の人々が支えたのです。
戦争末期の1945年には、地方都市にも空襲の危険が迫り、鶴岡市内の児童や東京からの疎開児童を、さらに農村部へ移す対応が取られました。市街地では、火災時の消防活動や延焼防止に備えて建物を強制的に取り壊し、図書館の蔵書の一部も山間部へ避難させています。戦争は、人々の住まいや学びの場にまで大きな変化をもたらしました。
現代への歩み
終戦後、鶴岡では生活を立て直すとともに、教育や文化の環境を整える歩みが始まります。1946年にはNHK鶴岡放送局が開局し、1947年には現在の山形大学農学部につながる山形県立農林専門学校が開校しました。野球場や陸上競技場などのスポーツ施設も整備され、学びや運動を楽しめる場が増えていきます。1948年の豊作は食糧事情の改善につながり、地域の暮らしにも明るさをもたらしました。
その後、昭和の町村合併を経て市域が広がり、鶴岡は庄内地方の中核都市として発展しました。2005年には周辺の五町村と合併し、城下町、農村、山間部、海辺の温泉地をあわせ持つ、現在の鶴岡市となります。
現代の鶴岡では、受け継がれてきた文化に新しい産業が加わり、2001年に開設された慶應義塾大学先端生命科学研究所を核として、生命科学の研究や、その成果を生かした企業の活動が進められてきました。米づくりや絹産業を育ててきた町が、先端研究の拠点としても歩んでいるのです。
一方で、2014年にはユネスコ食文化創造都市に認定され、在来作物や郷土料理など、地域が守ってきた食文化も世界へ発信されています。戦争の記憶についても、資料展や学童疎開を学ぶ取り組みを通じて、次の世代へ伝える活動が続いています。
鶴岡の歴史は、庄内藩の時代で終わりません。時代の変化や戦争を経験しながら、暮らしを立て直し、学びと産業を育ててきた人々の歩みが、現在の町につながっています。古いものを受け継ぎ、新しいことにも挑む。その積み重ねに、鶴岡という町の力が感じられます。
歴史会として鶴岡市を広めるなら

歴史会として鶴岡の魅力を広めるなら「なぜ?」から入る発信を考えたいと思います。
まず取り上げたいのは
「庄内藩は、なぜ戊辰戦争で強かったのか」
兵器だけでなく、商人の資金力や藩の団結を紹介すれば、歴史好きにも経営者にも関心を持ってもらえるテーマになります。YouTubeで背景を解説し、Xやショート動画では一つの疑問を提示して、ブログへつなげる展開が考えられます。
次は
「戦った薩摩と庄内は、なぜ親しくなったのか」
勝敗の後に相手をどう扱うかが、その先の関係を変える。西郷と庄内の交流は、人との向き合い方を考える講演にも広げられそうです。
「武士は、なぜ絹づくりを始めたのか」
も面白いテーマです。松ヶ岡の開墾を、仕事や役割が変わる中で新しい道を探した人々の物語として伝える。
史跡を巡った後に「自分たちの事業なら何を受け継ぎ、何を変えるか」を話し合う場を設ければ、歴史に学ぶ経営へ自然につながります。
現地イベントなら、鶴岡公園、致道館、致道博物館を巡る城下町コースを中心に、別日に羽黒山や松ヶ岡、加茂へ足を延ばす形がよさそうです。食事には庄内の米や在来野菜を取り入れ、食材の歴史も一緒に紹介する。歩く、学ぶ、食べるという体験を通して、鶴岡の魅力を伝えたいと思います。
鶴岡は、歴史が日々の暮らしの中に息づく町です。山で受け継がれた祈り、農家が守ってきた種、城下町の教育、海を渡った商い、そして旧藩士が育てた産業。それぞれの背景を知ると、旅先で出会う一皿や一本の道にも、長い物語が見えてきます。
次に鶴岡を訪れるときは、有名な名所に加えて、その場所を支えてきた人々の歴史にも目を向けてみてはいかがでしょうか。
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歴史会では、歴史を「学ぶ」だけではなく、地域に眠っている歴史を掘り起こし、現代に伝える活動にも取り組んでいます。
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歴史会では、自治体・観光協会・商工会議所・企業・地域団体などからのご相談を受け、地域史の調査、歴史コンテンツの企画、歴史講演・セミナー、人物や史跡のストーリー制作なども行っています。
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ところまで一貫してプロデュースすることができます。
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歴史をもっと深く、仲間と共に学びたい方へ──歴史会のご紹介

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