2026年8月19日、東京都千代田区大手町にある平将門の首塚、将門塚で、配信者の男性が石碑によじ登り、抱きつきながら奇声を上げる様子を生配信しました。
将門塚を管理する団体は警察に相談し、この行為はSNSで「罰当たりだ」「絶対にやってはいけないことだ」と大きな批判を浴びました。
その後、関東では激しい雨が降り、8月23日には茨城県南部を震源とするマグニチュード5.9、最大震度5弱の地震が発生しました。するとSNSでは「平将門の祟りではないか」という声が広がりました。
もちろん、大雨や地震と将門塚への行為に科学的な因果関係はありません。大雨には気象上の要因があり、地震は地下で起きる自然現象です。二つを事実として結びつけるべきではないでしょう。
しかし、ここで考えたいのは、祟りが本当にあったかどうかだけではありません。なぜ多くの日本人がこの行為に強い嫌悪感を抱き「将門公を怒らせてはいけない」と感じたのでしょうか。そして、そもそも平将門とは何をした人物なのでしょうか。
歴史を知らなければ、首塚は配信の再生数を稼ぐための変わった舞台にしか見えないかもしれません。しかし、そこは一人の死者を千年以上にわたって慰霊し、地域の人々が守り続けてきた場所です。今回の出来事を、単なる炎上騒動で終わらせるのではなく、平将門という人物と、日本人が大切にしてきた「畏れ」について考える機会にしたいと思います。
坂東に新しい国をつくろうとした男

平将門は、平安時代中期に坂東、現在の関東地方で勢力を広げた武将です。一般には903年に生まれたとされますが、生年には諸説があります。
将門の一族は、桓武天皇の血を引く桓武平氏でした。祖父の高望王は平姓を与えられて臣籍に降り、上総介として坂東へ下向します。任期を終えても都へ戻らず、子どもたちとともに関東各地の有力者と結びつき、未開地を開発し、馬を育て、広大な土地を経営しました。中央の貴族に代わって、自ら土地を守る武力を持った人々。後の武士へとつながる存在です。
将門の父・平良将も、下総国を中心に勢力を築いた人物でした。将門は現在の茨城県南西部から千葉県北部にまたがる地域で育ったと考えられ「相馬小次郎」とも名乗ったとされます。後世には、幼いころから勇猛で弓馬に優れ、学問にも通じ、領民との距離が近い人物だったと語られました。
若き将門は都へ上り、藤原氏の長である藤原忠平に仕えました。当時の朝廷では、藤原氏が天皇の外戚として摂政や関白などの要職を占め、政治の中心にいました。将門が都でどれほどの期間を過ごしたかは諸説ありますが、望んだ官職を得られず、低い身分のまま東国へ戻ったと伝わります。
地方には地方の問題がありました。国司の中には、重い税を課し、土地や収穫物をめぐって在地の豪族と対立する者もいました。一方、在地の豪族たちも自らの所領と権益を守るため、武装して争っていました。朝廷の命令だけでは地域の秩序を保てなくなりつつあったのです。
親族争い

帰郷した将門を待っていたのは、父の死と一族内の所領争いでした。伯父の平国香らとの対立は深まり、国香の舅にあたる常陸の有力者・源護と、その子の源扶らも争いに加わります。935年、将門は源扶らの待ち伏せを受けましたが、これを退けて扶と弟たちを討ち取りました。さらに源護の館を焼き、救援に来た国香も死亡します。
争いは一族全体へ広がりました。平良正、さらに一族の有力者である平良兼も将門と戦います。国香の子・平貞盛は当初、争いの収拾を図ったともいわれますが、やがて将門の敵となりました。
将門は朝廷に訴えられて都へ召喚されたものの、承平年間の恩赦もあって帰国します。その後も良兼との戦いは続きました。将門は一時敗れることもありましたが、やがて良兼の勢力を衰退させ、坂東屈指の実力者となります。その武力と仲裁能力を頼り、地域の争いを将門に持ち込む者も増えていきました。
ここまでの将門は、朝廷を倒そうとする反逆者というより、所領をめぐって争う東国の有力武士でした。しかし939年、常陸国の藤原玄明を保護したことで、事態は大きく変わります。
親族争いから国への反乱へ

玄明は国司と納税や収穫物をめぐって対立し、将門のもとへ逃げ込みました。常陸国府は玄明の引き渡しを求めますが将門は応じません。交渉は戦いとなり、将門は常陸国府を攻め落としました。国府は朝廷による地方支配の中心です。そこを武力で占領した瞬間、将門の行動は豪族同士の私闘から、朝廷に対する反乱へと変わりました。
将門はその後、下野国府、上野国府へ進み、坂東諸国を次々と掌握します。そして上野国府で「新皇」を名乗り、独自に国司を任命したと『将門記』は伝えています。将門が思い描いた政治の全体像は分かっていません。現代的な意味で民衆のための革命家だったと断定することはできませんが、都から派遣された国司に代わり、坂東に独自の秩序をつくろうとしたことは確かです。
平将門の最後

朝廷は将門追討の命令を出しました。しかし、都から派遣された征東大将軍の到着を待たず、関東の武士である藤原秀郷と平貞盛が立ち上がります。将門軍は当初多数の兵を集めていましたが、決戦の時期には農作業などのため兵が領地へ戻り、軍勢を大きく減らしていたと『将門記』は記します。
940年2月14日、現在の茨城県坂東市周辺で最後の戦いが行われました。強風を受けて苦戦していた将門軍は、風向きが変わると反撃に出ます。しかし、その最中に将門は矢を受けて討死しました。年齢は一般に38歳とされますが、これにも異説があります。
首は京都へ送られ、さらし首にされました。けれども、物語は死では終わりませんでした。将門の首は何か月たっても腐らず、目を見開き、「胴体を持ってこい。首をつないでもう一戦しよう」と叫び、東国を目指して空を飛んだという伝説が生まれます。その首が落ちた場所の一つとされるのが、現在の大手町にある将門塚です。
「恐れる」と「畏れる」は違う

平将門には、朝廷に背いた反逆者という顔があります。その一方、東国では中央の圧政に立ち向かった英雄、地域を守った武将として慕われてきました。
茨城県坂東市周辺には数多くの将門伝説が残り、今も将門まつりが行われています。
東京では神田明神の御祭神として祀られ、江戸の町を守る神として信仰されてきました。
将門に向けられた感情は、単なる恐怖ではありません。日本語には「恐れ」と「畏れ」があります。
「恐れ」は危険から逃れたいという気持ちですが、「畏れ」には、自分の力では計れない大きな存在を敬い、慎んで向き合う意味があります。
自然も同じです。山は恵みを与えますが、噴火や土砂崩れも起こします。川は田畑を潤しますが、時に氾濫します。海は食べ物をもたらしますが、人の命を奪うこともあります。昔の日本人は、こうした存在を一方的に征服しようとせず、神として祀り、感謝すると同時に畏れました。
人間の魂についても同様です。非業の死を遂げた者、強い無念を残した者、政治に敗れて名誉を奪われた者の魂には、特別な力が宿ると考えられました。その力を排除するのではなく、丁重に慰め、敬意を払い、ともに生きようとしたのです。
なぜ怨霊を神として祀ったのか

平安時代には、疫病、飢饉、落雷、地震などの災害を、無念の死を遂げた人の怨霊によるものと考える
「御霊信仰」が広がりました。863年には京都の神泉苑で御霊会が行われています。怨霊を追い払うのではなく、その魂を慰め、御霊として祀ることで、災いをもたらす力を人々を守る力へ変えていただこうとしたのです。
菅原道真がその代表でしょう。政争に敗れて大宰府へ左遷され、失意のうちに亡くなった後、都で落雷や疫病が続きました。人々は道真の怨霊を恐れ、天神として祀りました。現在では、道真は恐ろしい怨霊というより、学問の神様として親しまれています。
将門も同じ道をたどります。大手町の塚は13世紀に荒廃し、周辺で疫病や災害が起きたため、将門の祟りだと恐れられました。1307年、時宗の真教上人が将門に法号を授け、塚を整えて供養し、神田明神に祀ったと伝わります。祟る者として遠ざけるのではなく、名前と尊厳を取り戻し、地域の守護神として迎えたのです。
近代にも将門塚の祟りは語られました。1923年の関東大震災後、大蔵省が仮庁舎を建てる際に塚を崩すと、大蔵大臣や工事関係者らの死が相次ぎ、祟りではないかと噂されました。戦後、米軍が周辺を整地しようとした際には、ブルドーザーが横転して運転者が亡くなったとされています。
これらの事故や死を将門の霊が引き起こしたと証明することはできません。大切なのは、怪談を事実として煽ることではなく、人々が不幸をきっかけに塚の意味を思い出し、再び供養し、守ってきたという歴史です。
慰霊の場所と、どう向き合うべきか

慰霊の場所は、観光地や撮影場所である前に、亡くなった人を悼む場所です。そこに眠る人物を好きか嫌いか、霊や祟りを信じるかどうかは関係ありません。墓石によじ登らない、物を壊さない、大声で騒がない、供え物を勝手に動かさない。これは特別な宗教知識ではなく、他者が大切にしている場所を尊重する最低限の礼儀です。
将門塚には、将門本人だけでなく、千年以上にわたって祈りを捧げてきた人々の思いが積み重なっています。そこを笑いの道具にすることは、死者だけでなく、場所を守ってきた地域の人々、参拝者、歴史そのものを軽んじる行為です。
迷惑行為をした人物が、平将門の生涯や将門塚の意味を十分に知っていたかは分かりません。しかし、歴史を知らないことは、想像力を失うことにつながります。目の前の石碑をただの石としか見られなければ、その向こうにいる死者や、その場所を守った人々の存在も見えなくなるからです。
歴史を学ぶ意味は、年号や人物名を覚えることだけではありません。自分が生まれる前にも人々が生き、喜び、争い、傷つき、祈り、その積み重ねの上に現在があると知ることです。その時間の厚みを知れば、歴史的な場所に対する振る舞いも自然に変わるはずです。
日本人の道徳心とは

日本人が大切にしてきた道徳心の一つは「誰も見ていなくても慎む」という感覚ではないでしょうか。
法律に書かれていないから何をしてもよい、人に注目されれば何をしてもよい、再生数が伸びれば他者を傷つけてもよい。そのような考え方とは正反対のものです。
かつての人々は、山や川、祖先の魂、亡くなった人の無念など、目には見えないものにも敬意を払いました。それは科学を知らなかったからというだけではありません。人間には理解できないものがあると認め、自分の欲望や振る舞いに歯止めをかける知恵でもありました。
「祟りが怖いから、いたずらをしてはいけない」だけでは不十分です。祟りがなくても、してはいけないことはあります。相手が反論できない死者だからこそ、その尊厳を守らなければならない。自分には理解できない信仰であっても、それを大切にする人の心を踏みにじってはならない。これこそが、現代にも必要な道徳心ではないでしょうか。
平将門は、単なる恐ろしい怨霊ではありません。桓武平氏の血を引き、東国の土地をめぐる争いの中で頭角を現し、やがて朝廷の地方支配に挑み、「新皇」を名乗った人物です。反逆者と呼ばれる一方で、東国の英雄として愛され、死後は江戸と東京を守る神として祀られました。
将門の乱から千年以上が過ぎた今も、その名がこれほど人々の心を動かすのは、将門が単純な善人でも悪人でもないからでしょう。中央から見れば反逆者、坂東の人々から見れば頼れる武将。死後は怨霊でありながら、同時に守護神でもある。その矛盾を抱えたまま祀り続けてきたところに、日本人の歴史観の深さがあります。
今回の大雨や地震を、将門の祟りと断定することはできません。しかし、この騒動が私たちに問いかけたものはあります。
歴史上の人物を敬うとは、何か。
慰霊の場所を守るとは、何か。
そして、目に見えない他者の思いを想像し、自分の行動を慎むことができるか。
将門塚の前で本当に恐れるべきものは、怨霊の呪いではないのかもしれません。歴史を忘れ、死者への敬意を失い、人の大切なものさえ踏みにじってしまう、私たち自身の心なのではないでしょうか。
今回ご紹介した平将門については、YouTubeでも詳しくお話ししています。
一族との所領争いから平将門の乱へと発展した生涯、「新皇」を名乗って坂東に独自の国を築こうとした背景、そして死後に怨霊として恐れられながら、守護神として祀られるようになった理由について、分かりやすく紹介しています。
記事とあわせて、ぜひ動画もご覧ください。
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